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VOL.47/May,2000

INDEX
  1. NEWS
    ・第12回演奏会のご案内
    ・伊東氏連盟理事に就任
    ・演奏会実行委員より第12回演奏会に向けて
  2. 特集:突撃インタビュー〜松下先生に聞く
  3. 資料1:”ふるさとの歌”
    〜懐かしい文部省唱歌より〜(注釈と解説)
  4. 資料2:テッチャンのラテン語講座
    〜発音、歌唱のために(基礎編)〜Taro Tetzmi
  5. ●ピアニスト、人間、長田育忠先生
  6. Liner Notes by Itoh Keishi
    ■藤棚の香り漂う・・・

  1. ぬかやゆきひろの
    頭じゃなくてからだで歌う発声法
  2. Nietzscheたいらちゃんの
    <ビデオを観よう!>
  3. ●How do you do?●
  4. 鷲崎 春の演奏会情報
    -心の財産を見つけてみよう-
  5. ●うずからのお知らせ●練習予定表
  6. ●ホーリィからのお知らせ●合唱連盟便り
  7. ●編集後記●



よどこんプラザ5月号

よどこんニュース:
 ・第12回演奏会のご案内
 ・伊東氏連盟理事に就任

特集:松下耕先生に聞く


 
NEWS

言わずと知れた
   演奏会のご案内
     
●第1ステージ
  夏は来ぬ〜日本の叙情歌集より
      編曲:平吉毅州・飯沼信義

     夏は来ぬ
     七つの子
     七夕さま
     箱根八里
     海
     われは海の子
      指揮:伊東恵司
      ピアノ:細見真理子

●第2ステージ
  J.Busto合唱曲集
      作曲、編曲:Javier Busto
      指揮:伊東恵司

●第3ステージ
  幼き日の想い出
      曲:V.Tormis 詩:
      指揮:伊東 恵司
      ソプラノ:津幡泰子

●第4ステージ
  「子猫物語」
      曲:松下 耕
      詩:谷川 俊太郎

    子ども
    夜
    走る
    守る
      客演指揮:松下 耕
 
  淀川混声合唱団  

第12回演奏会

客演指揮:松下 耕
指揮:伊東恵司



平成12年7月15日(土)

  受付: 17:00
  開場: 18:00
開演: 18:30
いずみホール 
入場料:\1,500

 
 


伊東恵司氏、
大阪府合唱連盟個人理事に就任!

〜平成12年度大阪府合唱連盟総会にて

 初めに。淀川混声合唱団は今年も無事全日本合唱連盟に加盟しました。


 大阪府合唱連盟(以下、連盟)の総会に行ってきました。総会では、連盟の収支報告などが行われます。参加団体は242!収入はその加盟団体の加盟費と「ハーモニー」という合唱専門誌(季刊)の売上、その他によってまかなわれます。大阪では5,817,139円。多いのか少ないのか。一部は全日本連盟に部会費として納められます。しかし、大きな活動には補助金が下りてきます(めんどくさ〜)。これらのお金で合唱祭や講習会、大阪府合唱コンクール(中・高)などが行われているのです。
 支出の項で笑えるのは慶弔費。議長は「皆さんどうか健康に気をつけて下さい」と。出費が増えるからだって…。
 今年の合唱祭は第37回。サブタイトルは…
「祝2000年!今年はみんなでうたに専念」だそうです(どこがしゃれかお分かりですね?)。ちなみに、連盟では第40回合唱祭に向けて何か大きな仕掛けをしたいということで特別事業積立を行っています。

 さて、今年のメインイベント(よどこん的に)は新理事推薦!2人の理事候補が紹介され、承認されました。その一人に、我らが伊東恵司氏が推薦され、満場一致で就任の運びとなりました。その紹介文はこうです。
「同志社グリー出身の伊東氏はいろいろな合唱団を率い若手の中でも最も頭角を現わし、実績をあげてきている。昨年の合唱祭でも高校合同を指揮されて高校生も非常に喜んでました。先日の全日本合唱コンクールでは、なにわコラリアーズを指揮して初出場ながら金賞を勝ち取り云々(ここで会場からはほーっとどよめきが起こったのが面白かった)。お住まいが京都なのですが、京都の連盟には断りを入れて先に取り込みました。」
 これが我々全員で受け止めるべき出来事であることは間違いありません。

   氏が理事に就任されたことにより、「あの」伊東氏の合唱団、と注目度も増すでしょう(そんな形での注目のされ方は不本意ですよね。実力でも認められなければ)。団としてのアピールと新たな活動、団員獲得や現状からの脱皮へのチャンスでもあります
 また、これからは責任ある活動が必要になってくると同時に、団として連盟行事等への積極的な関わりや協力も要請されるでしょう。連盟行事への手伝い等も生じてくると思いますので、具体的にどうするということではありませんが、全員に認識をもっていただきたく今後の皆様のご協力、ご努力を大いに期待します。

 少し堅い話になりました。このへんで。

(文責 ホーリィ)


演奏会実行委員より
●第12回演奏会に向けて●

いつのまにか、桜も散ってしまって、食べたら、さぞ美味かろう、という葉桜に変わっていました。

…さてさて。やってきました、演奏会。夏なんて、まだ先だ、なんて思っていませんか?そんなことはありません。
あと正味、二ヶ月半です。今年は、演奏会用、チラシ、チケットが出遅れてしまいましたが、まだまだ、間に合います。今年は、おじいさんもおばあさんも、お父さんもお母さんも、近所の姉ちゃん兄ちゃんまで巻き込んで、充実した演奏会にいたしましょう!演奏会実行委員ともども、みなさん、がんばりましょうね。

<撒け、どんどん撒け>
 お待たせしました。演奏会用のチラシとチケット、5月の最初の練習日より、皆さまへの配布を開始致しております。今年は、じゃんじゃん、湯水の如く、撒いてください。来ていただける可能性のある方には、手を握って、おメメをきらきらさせて、「待ってるから、絶対来てね☆」、とダメ押しをお忘れなく。。。 そして、チケット調査には、是非とも、ご協力下さい。

     ☆注☆ 撒いて戴きたのは事実ですが、来て戴ける方の人数は、きっちり、把握していてください。

<パンフの行方>
 いつも頼りにしていた「あの方」が、今年はいらっしゃいません。 皆さんのアイデアを募集します。よろしくお願いします〜。

<お弁当>  今年は、当日のお弁当は、こちらで購入いたしません。自分の体調に合わせて、各自でご用意ください。 お茶についても、同様です。よろしくお願いします。

● その他、Xデーまでのスケジュール概要(チラシ挟みを除く)              

5月6日演奏会用チラシ、チケットの団員への配布
パンフ用、個人写真の回収開始
- 5月末日まで
5月中旬パンフの方向性決定。
資料・原稿の回収開始
- 6月13日まで
 演奏会費回収開始- 6月末日まで
5月下旬情宣開始
  末日個人写真閉め切り
6月 4日招待状の宛名書き、発送開始
  11日原稿締め切り
7月15日第12回演奏会

(第12回演奏会実行委員長 北浦久美子)


 
●特  集●

  突撃インタビュー〜松下先生に聞く

今回はよどこんを代表致しまして(?)私矢口がインタビューさせて頂きました。 先生よろしくお願い致します。さて、それでは早速質問です。

Q1.松下先生にお会いした時に、非常に「子供心のある大人」という印象を受けたのですが、先生の子供時代というのはどのような感じだったのですか?

僕の子供時代は、ピアノの英才教育を受けていた関係で、親が以上に『指』にナーバスで、あまり球技などをやらせてもらえなかったんです。 暗かったですよね〜(笑) あとは、模型なんかに興味がありましたね。 中学時代は、BCLという趣味が男の子の中で大流行しました。 これは、海外や国内の遠くの放送局をラジオで受信して、受信報告書、っていうのを出すと、放送局からお礼にきれいなカードをくれるんですね。 これを、一生懸命集めてました。 インターネット時代の現代では、はやるはずもない趣味ですよね。 音楽以外に得意だった科目は、国語。そして、物理と生物も好きでしたね。 苦手は、なんと言っても数学。先生が嫌いだったから。 それと、体育の先生の高圧的な態度にも、いちいち腹を立てていましたね。

Q2.音楽家というのは様々なジャンルがあると思うのですが、その中でも何故「作曲」なのか。 作曲家を目指そうとしたきっかけが、何かあったのですか?

じつは僕は、作曲家を目指そうとしたことはないんです。 中学2年の時にピアノの先生から「あなたは才能がないから辞めなさい」と言われて辞めさせられて、高校は普通科に通ったんですけど、ここで合唱と出会って、もう一度音楽をやりたくなったんです。 そして、音大に行くにあたり、何科に進もうと考えた時に、消去法で考えて残ったのが作曲だった…(笑)。 卒業作品を書いた時も、まさか作曲家になるなんて思っていなかったから、「これが生涯最後の作品だ」と思って書いたくらいです。 それが、いまではこんな職業についてしまったのですから、ホント、人生っておもしろいですよね〜(笑)

Q3.先生は作曲活動の傍ら、合唱団の指導にも力を入れてらっしゃいますよね? 先生が「合唱」にこだわる理由とは? 「合唱」の魅力とは何なのでしょう?

ずばり、響き。そして、その場所の文化が如実に表れること。 さらに、アマチュアがプロの領域を凌駕できる、唯一の音楽の分野であること。

Q4.先生が留学されていたハンガリーのことを教えて頂けますか? (北欧は、まだまだ日本人の間ではマイナーだと思うのです。) やはり、合唱が盛んになる土壌があるのですか?

ハンガリーは、北欧ではありませんよ(笑) (すみません。ハンガリーは「東欧」でした。byやぐち) 合唱音楽に対する理解度が非常に高い国です。 そして、合唱指導法のメソッドが確立している。 だから、優秀な指揮者が育ち、よって優秀な合唱団が育ちます。 ブダペストに「DUNA TV」(ドナウ川テレビ)という民間放送局がありますが、 この放送局の放送終了の音楽が、コダーイの「Esti dal」なんですよ。 最初聴いた時は感動しましたね。

Q5.最後に、よどこんのメンバーへメッセージを!

練習に参加させていただいて、とても雰囲気の良い合奏団と言う印象を得ました。 声の充実もすばらしい。 関西の合唱をリードする合唱団として、これからも合唱界にさまざまな提言をなさっていただきたいと思いました。 演奏会は、皆さんとコラボレートできることを、いまから心から楽しみにしています。 みなさん、どうぞよろしく!

先生ありがとうございました! 先生の意外な一面が見られたような気がします。 演奏会が待ち遠しいですね。

それでは。担当は矢口でした。

《付記》 
“Esti dal”「夕べの歌」コダーイの合唱作品の中で最も親しまれている作品。
国を追われ疲れ果てた人が、一日の終わりに捧げる祈りの歌。
非常に美しいヴォカリーゼが印象的な曲(でも難しい)。
“コダーイ”(1882-1967)ハンガリーにおいて、子供や学生のための音楽教育を普及させるために「コダーイ・システム」という独自の音楽教育法を確立した作曲家。このシステムは、近年我が国でも注目されている。


 
資料1

”ふるさとの歌”
〜懐かしい文部省唱歌より〜
(注釈と解説)

《夏は来ぬ》  (明治29年作)       

佐々木信綱 作詞
小山作之助 作曲

    美しい七五調の文語体。
 季節感や小道具や用語も和歌そのままで、五・七・五・七・七の31音 (卯の花の・・・忍び音もらす)に第五句の「夏は来ぬ」という5音を添え て「詩」とした。伝統的なものを継承し、それに新しいものを加えた作者 の意図が伺える。

◎ 来(き)ぬ
「く(来)」 の連用形+助動詞「ぬ」。口語体では「来た」

◎ う(卯)の花
うつぎの花。
初夏(6月頃)白い可愛い甘酸っぱい香りのする花を付ける。

◎ ほととぎす
時鳥、子規、不如帰、とも書く。
古来日本文学(特に短歌)によく出てくる。
昼夜共に鳴く夏鳥で鳴き声は「てっぺんかけたか」と聞こえる。 この激しい(血を吐くよう な)鳴き声から、病身の正岡子規はこれを自分の号としたことは有名。
徳富蘆花の悲劇「不如帰」は肺を患う波子をヒロインにしている。

◎ 忍びね(音)
陰暦4月頃(太陽暦5月)ほととぎすがまだ声をひそめて鳴くこと。

◎ 山田
山間の田。

◎ 早乙女
「さ」は接頭語。若(おと)女(め)。
年若い(未婚)女性のこと。

◎ 裳裾
もすそ。 着物の裾。 「裾」というより語感が美しい。 

◎ 玉苗
「玉」は美称。「早苗」に同じ。 苗代から田へ移し植える頃の若苗。

◎ ううる
「植う」の連体形。 口語体では「植える」

◎ 橘
「からたち」 ここでは「からたち花」の別称。 夏、白い小花を付ける。

◎ おこたり諌むる夏は来ぬ
「おこたり」はおろそかにすること。怠けること。
「諌むる」は「諌む」の連体形。 口語体では「諌める」
「蛍の光窓の雪・・・」と歌われているように、古来「蛍雪」の語句がある。 蛍の光で勉強した昔の人を見習い、日頃の不勉強をいましめている夏」の意。

◎ おうち(棟)
(お-ち)と発音。植物の名。 「せんだん」の古名。 香木。
<せんだんは双葉より香(かんば)し> 夏に淡紫色の五弁花を付ける。 古来「おうちの花は散りぬべし・・・・・」というように「散る」と何時も掛けて使われている。

◎ やど(宿)
家。すみか。「旅館」ではない。

◎ くいな(水鶏)
ここでは「ひくいな」の意。
夏鳥で夜行性のものが多い。和歌などではその鳴き声を「たたく」と表現している。

《箱根八里》  (明治34年作)                          

鳥居  忱 作詞
滝 廉太郎 作曲

 作詞者は東京音樂学校教授時代に、滝廉太郎は学生時代(21歳)の応募作品である。漢詩風の詩。対句の妙味を味わうこと。
明治30年代の青年を叱咤激励する意図からこの歌が作られたのではないか?と推測する向きもある。

◎ 函谷関
かんこくかん。中国の地名。今の河南省北西部。(三国時代の地図参照)魏の国にあり、洛陽と長安を結ぶ交通の要地で且つ険しいことで有名。函のような凹型の地形から、地名も「函谷」と名付けられた。 古来、この地を舞台とした合戦は数限りなく、一大英雄叙事詩「三国志」でも有名。

◎ 万丈の山、千仞の谷 
山の高いこと、谷の深いこと。
一丈は約3m。 一仞は約2m

◎ 一夫関に当るや万夫も開くなし
李白の「蜀道難詩」からの引用。
「一騎当千」の意。李白は千を万に置き換えて誇張している。
「一人の武士が守るだけで充分で、例え万人の武士が攻めて来ても陥落することがない」の意。

◎ あしだ(足駄)
「足板」→「足だ」  高下駄のこと。

◎ 斯くこそありしか
「こそ」は強調の助詞。「しか」は回想を表す。 助動詞「き」の已然形。 
文法上、掛かり結びの法則で「斯くありき」→「斯くこそありしか」となる。「きっとこのようであつたのだ!」の意。

◎ 天下のそ(阻)
「阻」は山のけわしいこと。

◎ しょくのさんどう
「蜀の桟道」 蜀の国(今の四川省)の地名。(三国時代の地図参照)。 黄河の上流の渭川
(ウエイ川)と長江の支流の嘉陵江(チャリン川)をつなぐ細い峠道。
「桟道」は谷に丸太や板で造った渡し道のこと。 

◎ かくこそありけれ
「こそ」は強調。 「けれ」は「けり」の已然形。「このようにあってほしいものだ!」の意。

◎ きんじの
「近時の」 近頃の。この頃の。 「近時」は「往時」の対象語。

(全訳)
1)  箱根の山はわが国最大の交通の難所である。
中国一の交通の難所である「函谷関」も比べものにならい。、
箱根の道は前に万丈の山が聳え、後は千仭の谷を臨む険しい道である。
また、山々は高く雲に覆われ、谷は深く霧の中に沈む。行く手の道は昼でも暗い杉並木の中である。
この小道は羊の腸のように曲がりくねり、濡れた苔道は滑るので歩行が困難である。
このような要塞の地は、一人の兵が守備に当たるだけでたとえ万人の敵が攻めて来ても陥落することがない。
その昔、国中を往来した屈強な武士は、太刀を腰に差しこの八里の岩道を高下駄の音も高らかにこの難所を通ったものである。
2)  箱根の山は国内一の交通の難所である。
中国の名高い交通の難所「蜀の桟道」も比べものにならない。

万丈の山・・・・・・(一番に同じ)・・・・・・・万夫も開くなし

今時の若者は草履を履き、山野を猟銃を持って八里の岩道を駆け回るが、昔の丈夫が高下駄で岩道を踏み鳴らして通つたように剛毅な若者であってほしいものだ。

《 海 》   (大正2年作)

作詞、作曲者共に不明。

  
七五調、文語体。
◎ 消ゆるところ
「消ゆ」の連体形+ところ。 口語では「消えるところ」

◎ しるきあたり
形容詞「著し」の連体形+あたり。
「しるし」は、「際立つている」「はっきりしている」

◎ いさり火
「漁り火」 魚を漁船の方へ誘い寄せるために焚く火。

◎ 浦風
海辺を吹く風。はまかぜ。

◎ いさご
「沙」 「砂」 「砂子」 とも書く。 小さな石。砂のこと。

(全訳)
1) 海辺の松の茂みがず-っと続く遥か向こうの沖合いに、
漁船の白い帆の影が水面にぼんやり浮かんで見える。
浜辺には、朝の漁猟を終えたあとの網が高々と干されている。
海の方を眺めると、静かな波にすれすれに一羽のかもめがさ-つと飛んで行く。
見てごらん。 昼の海を。昼の海の光景を。
2) 遥か沖の向こうに、島や山がくっきりと写し出されている。
そのあたりには漁り火の光だろうか、ぼんやり赤い色が ゆらいでいる。
浜辺にはゆっくりと波が引き寄せている。
渚を吹く風はさらさらと磯の砂を誘うように動かしている。
見てごらん。 夜の海を。夜の海の光景を。

《われは海の子》  (明治43年作)

作詞、作曲者共に不明。

  
 七五調、文語体。
◎ 白浪
白波。白く泡立つ波。

◎ 騒ぐ
古来「波がさわぐ」という語句がある。

◎ 磯辺
磯のほとり。 「磯辺の松原」は慣用句。 「磯」は海の水際で石の多いところをいう。

◎ とまや
「苫」 すげ(菅)や、かや(茅)で屋根を葺いたそまつな小屋。

◎ すみか
正しくは「住処」 住むところ。住まい。

◎ ・・・こそ・・なれ
意味を強めるための手法。

◎ ゆあみ
「湯浴み」 入浴。休浴。

◎ 海の気
「気」は空気、大気、の意。 「海の気を吸う」は慣用語。

◎ 不断の花
「不断草の花」のこと。
初夏に黄緑色の小花を穂状に付ける。葉は四季何時でも食用に出来ることからこの名がある。

◎ なぎさ
渚。 波打ち際。「磯辺」と同じ。

◎ いみじき
形容詞「いみじ」の連体形。 ここでは、「たいそう嬉しい」「素晴らしい」の意。

◎ がく
「樂」 音による芸術。音曲を奏すること。 「樂のね(音)」としてよく使われる。
「雅楽」「能」のイメ-ジ。

◎ じょうよ(丈余)
一丈あまり。 一丈=約3m

◎ ろかい
櫓と櫂。 船を漕ぐ道具。

◎ あやつりて
「操りて」 「操る」は「上手く扱う」。「小舟をあやつる」は慣用語。

◎ 行く手
ゆくえ。

◎ 浪まくら
波の上に寝ること→「船中に旅泊すること」
「日を重ねる船路の旅」「枕元に波の音が聞こえること」

◎ 行く手定めぬ波まくら
何処へ行くあてもなく日を重ねる船路の旅。

◎ ももひろ、ちひろ
百尋千尋。 長さ(距離)の極めて長い表現法。
尋(ひろ)は長さの単位。両手を広げた時の両手先の間の距離。縄・水深などを計る長さの単位。
一尋=五尺(1.515m)又は六尺(1.818m)

◎ 遊びなれたる
「たる」は助動詞「たり」(ラ変)の連体形。
ある動作がなされてその結果が今もあることを示す語。 「遊びなれている」の意。

◎ 庭広し
「庭」は、ここでは「海」のこと。

 (全訳)
1) 僕は海の子だ。
白く泡立って激しく打ち寄せる海辺の松林・・・・・、
その向こうに、かまどを焚く煙がたなびいている
萱葺きの家が見える。
その家が私の懐かしいすみかなのだ。(・・・叙景・・・)
2) 生まれた時は海の水で産湯をつかい(誇張表現)
浜辺に打ち寄せる波の音を子守歌のように聞き、
遥かかなたの沖合いから吹き寄せて来る海の空気を
吸って大きくなつた。 (・・・子供時代・・・)       
3) つんと鼻を突くような磯の香り(海の匂い)にまじって不断草の花の香りがほのかにする。
磯辺の松林に吹きつけるヒュ-ッという風の音は、まるで笛の音を聞くようで素晴らしい。 (・・・思春期・・・)   
4) 一丈あまりの長い櫓や櫂で船を漕ぎながら、何処へ行くあてもなく海上の旅を続けている。
海底までは百米も二百米もあろうかと思われる深い海だ。
子供の時からずつと遊びなれて来た海。
海は広い。                              (・・・青年時代・・・)  

(後記)
 「箱根八里」では、恩師、田中耕三氏(現、日本地理教育学会理事)に、三国時代の地理面でのご指導を頂きました。
 それ以外は私のオリジナルですので、もし間違いなどありましたらご指摘下さい。
 何十年ぶり?の国語の先生、しんどかったです。

河渕清子


 
資料2

テッチャンのラテン語講座
〜発音、歌唱のために(基礎編)〜


はじめに

第9回演奏会の「Magnificat」以来、淀混では毎年ラテン語の曲が採り上げられています。指揮者の選曲の傾向からも、世の中にある曲に占めるラテン語の歌詞の曲の割合からも、今後ラテン語とお付き合いする機会が相当見込まれると思います。通常の学歴の中ではまず習うことのない言語ですので、ほとんどの方が「指示された(以前に教わった)通りに発音する」程度のレヴェルにあると思います。それでも一応は歌えるのですが、団全体としてラテン語に対する知識を持っているとよりラテン語らしい発音、歌唱が可能になると思います。そして、発音、歌唱だけに限るとほんの少しの基礎知識を持つだけで相当ラテン語らしい発音、歌唱が可能になると思っています(語学として習得しようとするとかなり大変ですが…)。何も恐れることはありません。本当に少しの「基礎知識」と、あとはそれをスムーズに発音するための「慣れ」だけで今までより数段ラテン語らしい発音で歌えるようになるはずです。

ラテン語の発音について

一般的に今日ではラテン語は既に死語と言って良いでしょう。一般的にと書いたのは、現在でもローマカトリックの公用語であったりして「死語ではない」と主張する人々もいるからですが、日常の会話をするのにラテン語が用いられることはまずないと考えて良いでしょう。つまり、日本人に限らず世界中の人々にとってラテン語は「外国語」になるのです。もちろん、イタリア語、スペイン語などラテン語から発展してきた言語や英語、ドイツ語のようにラテン語の単語、文法を相当に取り込んだ言語を使っている人々と全く同じスタートラインにいるわけではないのですが、英国人の英語発音を英国人と競うよりはハンデは少なくなる筈です。
もう少しラテン語発音に関しての一般的事項について記しておきます。実際にラテン語を発音しようとした場合、「どの時代」の「どこの地域の」発音か、という問題が出てきます。例えば英語の場合でも、英音、米音、さらには古英語など時代、地域によって発音が異なる場合がありますが、ラテン語においても発音の時代差、地域差が相当にあります。この時代差、地域差については他著に譲るとし、今回は触れないことにしますが、色々な演奏を聞いてそれを発音の参考にする際には充分な配慮が必要ですのでよ注意して聞いて下さい。
日本でラテン語の曲を歌唱する際には所謂「ローマ式発音(南部イタリア発音)」が用いられることが多いと言われていますが、この「ローマ式発音」そのものにも諸説あり発音の問題をより複雑にしています。何もかも解説する訳にもいきませんので、今回の発音の解説は、「諸説ローマ式発音」を私なりに集約したものとします。

※ 以下の発音解説は相当に簡略化しています。例えばラテン語の「a」と日本語の「ア」とは厳密に言うと多少異なりますが、初歩編として最も理解しやすい表記に努めた結果とご理解下さい。正確な発音についてはラテン語の辞書等を御参照ください。(後日「中・上級編」等続編を書いてもいいのですが…まあ、今回はこの辺で。)

母音と子音

以下、母音と子音の発音に仕方を個別に解説しますが、ここでは、〔 〕内は発音記号を、「 」内は綴り字や日本語を示すことにします。

母音


母音「a, e, i, o, u」は基本的にはローマ字通りの発音でOK。各々「ア、エ、イ、オ、ウ」と聞こえます。但し、『ラテン語の「a, e, i, o, u」の発音=日本語の「ア、エ、イ、オ、ウ」か?』、と問われれば、厳密に言うと答えは「No」です。この「似て非なるもの」というのが一番の曲者かもしれません。基本的にラテン語の母音は日本語に比べて口の中の容積を大きく取り、明るい(決して「軽い」ではない)音を発します。これは単一の母音でも二重母音でも同じです。
なお、母音的な「y」は「i」と同音になります。
二重母音としては「au, eu, ei」があります。そのままローマ字的に発音すればよいのですが、「au」は「アウ」よりも「アオ」、「eu」は「エウ」よりも「エオ」に近く発音します。但し、決して「ao」や「eo」ではありません。ラテン語の「u」の母音は日本語の「ウ」の母音に比べて非常に広く、また唇も丸めて発音します。
「ae, oe」は「e」と同様に発音します。
「qu, ngu」の「u」や「alleluia」の「i」等は子音的に発音します。これらは「子音」のところで解説します。
「a, e, i, o, u」の母音を発する際の指標を各々記しておきます。

子音

長母音と短母音

一部の解説では、「ローマ式発音」には長、短の拇印の区別はなく、全て短母音であるとするものもありますが、一般的にはこれらを区別するのが主流ですので解説しておきます。
ラテン語において、長母音と短母音の違いは非常に重要です。ラテン語の辞書では必ず長母音の位置が表記されています。これは、発音上の長短はもちろん、強勢(アクセント)の位置の決定に対してもこの母音の長短が非常に重要だからです。
まず発音上の問題ですが、皆さんは長母音を長く、短母音を短く、区別して発音できますでしょうか?。単語を発音するときは比較的簡単ですが、音符になった時にも長短の区別をつけることができますか?。欧米の言語には長母音、短母音がありますので、彼らは比較的簡単に母音の長短を音符に乗せることができますが、日本語にはないのでなかなか難しい。これは歌詞を繰り返し朗読し、その語感を音符に乗せる訓練を続ける以外に方法はないでしょう。その為にも、どこが短母音でどこが長母音なのか、常に気を配りながら発音しましょう。
ラテン語の発音の解説によっては、長母音は短母音を単に長く発音するのではいと解説しているものがあります。例えば長母音の「e〔e:〕」は母音の「e〔ε〕」よりも「i〔i〕」の発音に近いとするものです。これはドイツ語訛り等の特徴ですが、イタリア式発音の場合長母音「e〔ε:〕」は短母音「e〔ε〕」を長く発音するもので良いとする方が多いようです。
発音だけでなく、後述する強勢(アクセント)の位置に対してもこの母音の長短は非常に重要な要素になります。
ラテン語の場合、母音の長短は次のように分類します。

  1. 生来長い母音
    これは普通の「長母音」に相当します。ラテン語の辞書では必ず上線「  ̄ 」等で示されています。
  2. 位置的に長い母音
    これが少しややこしいのですが、後述の強勢の位置の決定には欠かせません。ある母音の後ろに子音が2つ以上あるものをこのように呼びます。母音の発音そのものは短母音的に行いますが、後述する強勢との関係でこの様な呼び方をします。
    例:「omnes」の「o」、「sacrum」の「a」
  3. 短母音
    文字どおり短母音です。

強勢(アクセント)

  1. 1音節の単語の場合
    これは単純です。音節が一つしかないのでそこに強勢がきます。
    例:te, et, vos
  2. 2音節の単語の場合
    これも単純です。最初の音節に強勢がきます。
    例:virgo, deus, ave, nobis
  3. 3音節以上の場合
    これが少々複雑になります。
    (1)後ろから数えて2つ目の音節が「生来長い母音」の場合
       後ろから2つ目の音節に強勢がきます。
     例:Maria, beata, laudamus, atendo
    (2)後ろから数えて2つ目の音節が「位置的に長い」母音の場合
       これ(1)と同様後ろから2つ目の音節に強勢がきます。
     例:profundis, atendo, sacramentum
    (3)後ろから数えて2つ目の音節が位置的にも生来的にも短い場合
       この場合は後ろから3番目の音節に強勢がきます。
     例:misericordia, agimus, dominus, magnificat

※ ラテン語の単語内の強勢が後ろから4音節以上前にさかのぼることはありません。

実際に歌唱する際、単語内の強勢の音節があるからといって、その音に「カツン」というアクセントを付けろと言う訳ではありません。こうすると大抵の場合その音楽を潰してしまいます。感覚的には強勢のある音節の音に「テヌート」を付けるようなイメージ(大切に歌うというイメージ)の方が上手くいくことが多いようです。この辺はセンスの問題でしょうか。

リエイゾン

ラテン語を発音する際には、基本的には「リエイゾン」はありません。

おわかりいただけましでしょうか。理解したという人は、次の問題に挑戦してみましょう。     

問題1.次のラテン語の内、二重母音の箇所を下線で示せ。
(1) laudo(ほめる)
(3) tua(あなたのもの)
(5) tuus(あなたの)
(7) deus(神)
(9) deificus(神々しい)
(2) pie(敬虔に)  
(4) caelum(空、天) 
(6) eurus(南東風) 
(8) eiulates(悲嘆)
(10) coquo(料理する)
問題2.次のラテン語の単語の発音記号を強勢の位置を含めて記せ。但し、長母音は「  ̄ 」で示す。
(1) mater(母)
(3) sanctificatio(神聖にすること)
(5) saeculum(年齢、世代)
(7) crucifigo(十字架に打ちつける)
(9) tertio(3度目に)
(11) iudex(審判者)
(13) catholica(全体、宇宙)
(15) confiteor(白状する、承認する)
(17) hora(時間)
(19) sanguis(血)
(2) natus(息子)
(4) regnum(王国)
(6) omnipotentia(全能)
(8) descendo(下る)
(10) dies(日、昼)
(12) ecclesia(集会、教会)
(14) resurrectio(再起、復活)
(16) dignus(価値のある)
(18) martyr(証人、殉教者)
(20) exemplar(写し、筆写)

(答はこちら)    

最後に

インターネットで検索してみると、半年前まではあまり無かった「ラテン語の解説をしているページ」が日本語版に限っても相当数発見できるようになりました。その中には発音の解説も多くありますが、諸説入り乱れているような感があります。まあこ手の事項は学者の間でも諸説議論されているので仕方の無い問題でしょう。もしご自分で調べられるという方は「方言種々」が存在することに充分配慮して下さい。下手に内容を吸収するだけですと頭の中が混乱することが予想されます。
現在の「よどこん」でラテン語の曲を歌う場合には、今回記した発音にしたがって頂ければ大きな問題はないでしょう。もちろん、最終的には指揮者の指示に従うよりほかありません。合唱団の中で発音がばらばらになるのが一番問題です。
あとは、発声との絡みになりますが、口の中の空間をより大きく取って明るい母音を発すれば、よりラテン語本来の母音に近づきます。これは、純粋な発声練習と同じ方向にを目指すことになるでしょう。そう、実はラテン語は声楽的発声に非常に適した言語でもあるのです。                  

(鐵見 太郎)


 
●ピアニスト、人間、長田育忠先生●

坂口 和彦

  今春からは仕事の場をオーストラリアに移すこととなり、それに伴いしばらくの間は日本を離れ...、長田育忠(2000年元旦の年賀状)。えっ、なんで?

 関西にいて少しばかり合唱をかじった人なら、「ピアニスト、長田育忠」は誰でも知る存在。長田先生のプロフィールはよどこんその他の演奏会パンフレットをご参照下さい。プロ、アマチュアの演奏家を相手に多方面でご活躍の人気ピアニストです。これほどの実力を持つ人だからオーストラリアではもう進むべき道が出来上がっていて、バラ色の人生が約束されているんだろうな、皆さんそんな風に思っていませんか。と、とんでもない。

 先日、職場からご自宅へ電話して「近日中に夕食をごいっしょさせていただけませんか」と申し上げたところ、「じゃあ、今晩」ということで突然の私の誘いに快く応じて下さいました。長田先生と話し出すといつも時間がどんどん過ぎて、この日も帰宅は12時すぎ。音楽のみならずこの日は人生?についてまでも話がおよびました。実は、私にはなぜ彼が今、オーストラリアへ行く(移住する)のか、本当のところ理解できず、その真意を聞きたかったのでした。私の勝手な理解では、オーストラリア→音楽活動が順風満帆にできるところではない。日本からオーストラリアへ→演奏家としての音楽レベルの充実度から言えばむしろ逆行した選択では?、とさえ感じていたのです。

 話をして得た結論はこうです。その時その時の最善を尽くす人(演奏家はまさにそうですね、一度の失敗が命取りになる)や、懸命に前を見ようとする人には何かが見えてくる、私はそう信じます。長田先生は納得して好きになれる自分の将来を見るに至られたのではないでしょうか。演奏家として活躍する一方、まだ成熟していない音楽環境の中に身を置き、教育等を通じて音楽が発展する過程に直接触れてその中で喜びを感じたい、そんな生き方を一からやってみよう、そう思われたのではないでしょうか。それはいい意味で生きることをもっと楽しみたいという欲求から生まれた第2の人生そのものだと思うのです。ある程度名前を知られた人が少し違ったことをやろうとすると自分も回りもいろいろ気を遣う、日本はそういうところです。でも外国は違うんですね。なりふりかまわずやりたいことを懸命にやろうとする人を回りが特別視しないんです。この「なりふりかまわず」というところが重要で、長田先生といえどもオーストラリアでは、そこからスタートせざるを得ないと思います(たとえ決まった仕事がいくつかあったとしても)。ものすごいチャレンジ精神と努力が必要です。

 ああ、そうだったのか、と心で手を打ちました。そして、同い年(いっしょに厄年!)の仲間としてうれしい気持ちになりました。「ここにも生きることに真剣な人がいる。」私としては、なぜオーストラリアへ、の愚問が頭から離れ、「人間、長田育忠」を心から応援したいと思うようになった次第です。決断が正しかったかどうかなんて、山あり谷ありの人生、誰にもわからない、死ぬときに自分でどう思えるかだけが答えでしょう。第2の人生を切り開きたい、このエネルギーと決断に敬意を表します。なお、上述の内容は、長田先生との話から私が感じた勝手な判断に基づくものです。内容に関するまちがい等があれば全て私の誤解と文章のいたらなさに起因するものですのでご容赦下さい。

 最後に、6年前にある合唱団で長田先生と共演する機会に恵まれながら急病で入院のためにやむなく私がキャンセルしたステージのことが思い出されます。リハーサルの一度だけの体験でしたが、私の感じる音楽を思いっきりぶつけさせていただきました。自分が指揮しながら頭の中でうごめいていたものがみるみる「かたち」になっていくあの興奮が今でもはっきりと思い出されます。音楽を続けていればまたきっとごいっしょできるチャンスがあるにちがいない、などと夢見ながら、長田先生の今後のご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げる次第です。


        
LINER NOTES
by Ito Keishi

■藤棚の香り漂う…


藤棚の香り漂う季節になりました。(…と書いたところで大雨、落雷。)
神経をすり減らした5月5日のコンサート(「なにわコラリアーズ」)を本当に楽しく終えることが出来て、ひとまずホッとひと息です。いよいよ「よどこんの夏」を前に張り切らねばなりませんね。

昨年から今年にかけて、身の回りの変化に戸惑いつつも飲まれるようにして生活していますが、同志社大学に勤めている関係上、今年一年間在外研修で不在の顧問教授に変わってグリークラブの顧問代行まで務めています。
恒例の新入生の入部式に際しては、式辞のようなものを語らねばならず、在学生、一年生に「合唱」とその「魅力」や「やらねばならぬこと」を伝えるために、ふといろいろなことを考える機会がありました。
翻って「よどこん」のことを考えた時に、下記のような「初心」はいつでも重要だという実感から、いくつかのキーワードを中心にメモ書きします。自分の頭の中の整理されてなさをさらけ出すようですが、例によって脈絡のない覚え書きとなります。

●「合唱の魅力は、合唱というものが仲間がいなければ成り立たないものであるということ」

もちろん大学生活で大切なのは、試験前にノートを借りることの出来る友達を揃えることでもあるわけですが(世間的には…)、逆に一生付き合って行ける本当の友達を見つけることは難しいものです。(おそらくクラブ・サークルの中で見つけられた方のほうが多いでしょう。)何かの目標のために「一生懸命になれる」友達を持てることの幸せは何にも代え難いものではないでしょうか。
合唱の素晴らしさは、合唱というものそのものの仕組みが、高い声や低い声等の複数の声部で成り立っており、それぞれが得意の分野で力を発揮しお互いを支え合うことが出来ることです。

(よく中学校の変声期の男の子が転調してピアノを弾く能力のない音楽教師によって固定調で歌わされたために、まともに歌えず失笑を買い音楽嫌いになるというパターンがありますが、それとは逆の音楽との関わりが持てる訳ですよね)

当然ながら、アマチュア合唱の場合必ずしも全員が完璧な素養を持っているわけではありません。
「音はなかなか取れないけど、声だけは立派な人」逆に
「音程はすぐに取れるけど、声がまだまだ練れていないという人」
こういう人たちが隣で歌い合い実質的に支え合うことによって、合唱団は驚くほど機能するのです。
さらに 「音程も取り難いけど、声もまだまだ」という人がいます。
でも、その人が「人一倍努力する」人であるという場合、彼(彼女)の存在は合唱団にとって重要でしょう。あるいは、「あまり音楽的に貢献するところは見られないけど、練習の雰囲気を高めてくれる人」もしくは「よく気が付き、人の面倒を良く見てくれる人」…というように、我々はそれぞれに欠陥を持った人間の集まりで、互いに補い合っているからこそ組織として成り立ち、新しい発見を可能にするのではないでしょうか?

そんなことをグリークラブのメンバーと話し合いました。このことは一人で生きていけないのと同様にお互いの特徴を理解しながら支え合うことの重要性を教えてくれるようです。そして、そのこと自体が「アマチュアの合唱」の素晴らしさではないでしょうか?

皆さんも「いずみホール」に一人立たされた姿を想像してみてください。いったい何が出来るでしょう?。逆に60名の「よどこん」の仲間といずみホールに立ったところを想像してみてください。出来ることがいっぱいあるようでわくわくしてきませんか?。
一人では逆立ちしても出来ないことを、お互いが補い合い、力を発揮し合うことによってびっくりするほどのエネルギーを発揮出来るのです。そして、我々が発揮しようとするエネルギーは利害の絡んだ「仕事」でも「政治」でもなく、純粋な「音楽」に向けられているのです。
このことは本当に素晴らしいことではないですか?

●「良い音楽を得るためにエネルギーを使っていること」

時々学生合唱団と接していると、信じがたいことに「別に合唱が好きな訳ではない」という言動に出くわすことがあります。照れや迷いのようなものも当然含まれることは理解出来ますが、活動の中にある種の義務感が支配的であったり、逆に多くメンバーが卒業後合唱から遠ざかる(状況が許さない場合もあるでしょうが)のを見ると、学生に対してはどうしても次の言葉をキーワードにしなければならないと思いました。

●「音楽を好きになって欲しい」

このメッセージは極めて逆説的でもあります。好きになるのに本当は努力やお願いなどは伴わないことが通常な訳ですが、言い換えると

◎「積極的に新しい発見をして見ると、どんどん音楽を   好きになりますよ」
◎「良い音楽をたくさんきいてみましょう」
◎「こんな音楽をしたいという夢を持ってみましょう」

ということでしょうか。
「良い音楽に対するイメージ」と「新しい発見」は「音楽の喜び」を知るためには非常に重要です。
学生合唱団を見ていると、一時期「達成感のための努力」(もちろん集団でものごとに取り組む以上、達成感は大切)「努力のための努力」「練習のための練習」になってしまって、「良い音楽」(あるいは、こんな音楽を作りたい…という意志)目標が見失われているのではと感じることがありました。

一般の合唱団である我々は、「音楽」の好きな人が「音楽」を媒介にして、ネットワークを作っている訳です。目標は「良い音楽」(懐深い言葉として捕らえてください)を作ることです。
ものごとにはプロセスがあり、プロセスを経ていくことは重要ですが、プロセスを経たからといって「音楽の喜び」に到達するという訳ではないでしょう(…合唱コンクールの落とし穴は、プロセスと成果が結びつきやすいところかも知れません。つまり、音程や声質をそろえ、ミスを無くし、難易度の高いものを克服していくという単純な図式が結果に結びつくことが多く、それ以上の音楽の楽しみや目的を見失わさせる要因になることがあります…)もちろん、音楽を彫像していくためにはプロセスを経ていく努力は必要です。その為の、技術や知識の獲得を怠ってはなりませんし、音楽の楽しみや気安さを自身の「痛み(苦痛ということではなく、時間やエネルギーを割くとか、ぐっとがんばる場面が必要という意味)」の伴わない享楽的なものと捉えてしまっては決して「良い」ものは生まれません。(…ここを履き違えないようにしましょう。提供されるものを期待するばかりの人はお金さえ払えば全て準備してくれる大型のオーケストラ合唱団で満足出来るはずです。個人の努力、パートの努力、団としての努力など、良いものを得るには様々な種類の努力が必要です。…)

しかし、我々の目的はそこにあるのではなく、プロセスを経てたどり着いた遥か彼方の次元に一気に飛び越えなくてはならないと思います。つまり「音楽の目的」そのものに到達しようとする力を持つことが重要だと思います。「音楽の目的」とは一体何なのでしょう?

●「人の心をゆり動かすこと」

「励ましの音楽」「共感の音楽」「共振の音楽」「癒しの音楽」…人生の持つ喜怒哀楽や様々な感情の機微を音楽で表現することこそ音楽の最大の喜びなのではないでしょうか。そのために必要な要素が「想像力=イメージの喚起力」であると思うのです。

さてさて我々は、演奏会を前にしています。
先ほど申し上げましたように「良い音楽」を得るのに技術を磨く必要がありますが、必要な技術が揃ったからといって良い音楽が生まれるとは限りません。目の前の音楽をいかに表現するかということに対しては自らの人間性(感受性)を含めて全身で音楽に対峙する必要があるでしょう。「懐かしい匂い」「懐かしい響き」「強い強いメッセージ」「静かな祈りの気持ち」…音楽の起伏をいろんな感情に膨らませて、その感情を全身で表現する必要がありますね。

「良い音楽」とは人の人生を変えるエネルギーを持っていると思います。
不思議なことに、メッセージや思いが強ければアマチュアである我々にもそれは可能なのです。
私は拙いながらも毎回、自分の感性を精一杯音楽に対峙させることによって日本(唯)一の(日本に一つしかない…このメンバーでしか出来ない)「良い音楽」を共有しあえる演奏を目指したいと思っています。その目標さえ見誤らなければ、あとは精一杯努力することに「励み」が生まれます。「気持ちの一杯つまった音楽」が指揮者としての私の目指したい「音楽」であり、「よどこん」の音楽の特徴です。2000年の「よどこん」の演奏が歌い手と聞き手の心にずっと生き続けるものでありたいですね。
がんばりましょう。

P.S.

大阪府合唱連盟の個人理事に就任しました。(21世紀ビジョン策定ワーキンググループメンバーに入ってしまっています。)今まで連盟にはお世話になるばかりでしたが、今度からは立場が変わってお世話をする側にも回らなくてはなりません。私のように反アカデミズム兼アウトサイダーの象徴のような恩師(故福永陽一郎)だけを信じ、学生時代から連盟に見向きもせずにマイペースで合唱を続けてきた人間にとっては、オーソライズされた組織体から声がかかるということ自体慣れておらず、戸惑いと不安に付きまとわれています。
とはいえ、合唱団の内側だけでなく連携を含めた合唱活動体に興味を持ち始めてきたときでもあり、勉強のつもりで連盟の仕事に加わることとしました。
もちろんこのことの背景には、実態として10年以上に渡って力強く合唱活動を続けてきた「よどこん」への励ましの意味があるとも考えられるでしょう。「合唱団は10年が一つの正念場」とは関屋先生の言葉ではありますが、幸いにも「よどこん」は多種な問題を抱えながらも創設メンバーから2次的にネットワークを広げることが出来、10年を越えても「いずみホール」で演奏会の開ける合唱団へと成長してきております。
今後は、大阪の合唱界や合唱全体をも視野に入れてみたいと思います。今までのように気楽に謙虚に(ときには派手に)音楽と対峙しながら、合唱そのものの豊かさと魅力をたくさん発見し表現していきたいと考えております。

いとうけいし


 
ぬかやゆきひとの
頭じゃなくてからだで歌う発声法

今回は息の「吐き方」、腹式呼吸についてであったんですが、教科書でもないわけで体系的に書く必要も無いので、やっぱり思いつきで書くのが一番イイ。
あんまり難しいことを書くと筆者の頭もこんがらがってくるし、混乱する人もでてくる。
筆者の提案する方法や考え方がベストであるとは思わないが、読者が少しでも声について興味をもったら嬉しいもんだ。

テレビをつけていると最近CMで寒気がする声がよく聞こえてきます。
どんなのかというとノドを鳴らすような声で男声がカンツォーネ歌っているようなやつ。
イタリア料理の冷凍食品とか大手英会話学校のCMとか、最近いろんなCMで耳にするんですが、皆さんも聞き覚え在るでしょう。
あの程度なんでしょうね、日本での声楽の理解のされ方なんて。
なんか非日常的で仰々しくて・・・・あまりにもバカにしている。
もちろん歌ってる側は、実はそんな歌い方はしないっていうのもわかっているし、制作側もわざとヘタクソにヤラセている。
オーバーにやることでそれらしいイメージを掴みやすいとか、インパクトはあるんでしょうが・・・・・

でも日本での声楽の世界でもそういう歌い方がよしと理解されていたこともあるようだし、いまでもその流れを引き継いで、ノドをならすようなシブイ声を好む人たちもいる。
まるでノドを締めて声を絞り出すとか、渋い声をだす、というのが遺伝子レベルで染み付いてるんじゃないか?

イタリアで

ところで、このまえイタリアにハネムーンで行ってきたんですが、イタリアはご存知のとおり、紀元前とか、ローマ帝国からあるような石でつくられた建造物が主流だ。
各都市はドゥォーモ(ドーム)といわれる寺院の搭を中心にして四方に広がっている。
これらの寺院は何百年もかけて建造されたものらしい。
それらが今もしっかりとメンテナンスされて美しく維持されている。
案内してくれたイタリア在住の旧友は、今は大理石を納めている業者だった。
歴史的な搭は、壁だけでなく、床も大理石で出来てるというせいか、音が良く響く。
友人の彼が言うには、メンテナンスを行っている管理者は、建物のどこかに異常がないかどうか、まず定期的に「歌って響き具合を耳で確かめる」というのである。
なるほど、石が少しでも欠けていたりすると響きが変るということか・・・なんて思いながら、筆者は「静かに!」と注意書きがあるにもかかわらず早速声を出してみた。
しかし、あれあれっ?響かない。
高く空まで続くようなステンドグラスの天窓には「いつもの声」ではとどかない。
気をとりなおして寺院の厳かなムードにあわせて、グレゴリオ聖歌のようなイメージで、懲りずに今度は「息混じりの裏声」で「ハアー」って軽く声を出してみた。
するとこれが何と、声が空気に溶け込むように、建物全体に響く。自分では弱弱しい声の筈なのに。
まるで自分の声が天まで飛んでいくような感じを覚えたのであった。

声が遠くに飛ぶ

「これこそがベルカントの生まれた環境」なのだ。そう言えばヨーロッパは石の建造物が中心だ。
ベルカントはヨーロッパの様々な国の言語とむすびつき、ドイツリートとかそれぞれ独自な発音や民族の気質と結びついて声楽の発声法の元になったという。
そもそも我々が歌うための声と思っているモノと、西洋でうまれた声楽で使う声とは発想のスタートラインが違うのだ。
西洋では大きな石造の教会やホールの中で「効率的に飛ばせる声」を編み出さねばならなかったわけだ。
こういう発想はちょっと強引かもしれない。
他方、定期演奏会で演奏する作曲家トルミスの育った、エストニアとかヨーデルで有名なスイスや日本でも民謡で親しまれている
イギリスのスコットランドやアイルランド地方などの、我々がアルプスの少女はハイジをイメージさせる地域を観てみよう。
そこでの牧童達は、歌声を遠くにいる他の牧童達と交信する手段として使っているという。歌声やメロディーは自分のアイデンティティーをあらわすわけだ。
(ちなみにアフリカでは太鼓を遠くの隣人と会話する手段として使っているらしい)
彼らも「遠くに飛ばせる声」を必要としたのではないか。
我々の文化の中にある唸るような渋い声では長い時間歌ってられるだろうか?
遠くへ声をとどかそうとして怒鳴っても、吠えても声がすぐに枯れて長くは続けられないだろう。
彼らはどんな声で歌ってるだろうか?ヨーデルを思い浮かべればわかりますね?なんか薄い感じの声です。
アイルランド民謡なんかは胸の響きをほとんど排除した声で歌われているってことを聞いたことあるんじゃないでしょうか。
そうです「ウラ声」が元になった声なんです。声楽で用語では「ファルセット」とか「頭声」言われています。
そこには気張りとかノドをつめたりして、声を荒げることも無いし、自分の出している声を首を振るわせながら、一音一音自分の体に響いているか確かめることはしない。
自分のいる空間の空気の振動を感じながら歌うのだ。
声を出している自分を確認しながら、まるでお経を唱えるように歌うのではなく、自分と他との関わりを通じて歌声を感じているようだ。

左脳の声

我々は民謡や能や狂言など、演歌も含めて音や歌詞を頭で一つ一つ納得するように、あるいは「噛み締めるように」歌う文化で育っている。
言わば「左脳」で歌っているのだ。メロディーもフレーズよりも音階的に一つ一つ階段を上るように理解しているのかもしれない。
低い音から高い音への跳躍は大股をひらいて2、3段抜かすって感じだから、音はずり上げてしまうことが習慣になってしまっているし、そのほうがカッコイイって感覚が 染み付いてしまっている。 我々はスカッとクリアーで爽やかよりも、唸りやシブさに「凄さ」や「厳かさ」、自分が納得する「リアルさ」を覚える文化にいるのだ。
だからかクリアーなものに広がりを感じるどころか、「青臭さ」や物足りなさを感じずにはいられない。

しかし、われわれは合唱をやっている限り、西洋からきた発声法をベースにするほかない。
しかし、歌声そのものの出発点が我々の文化のそれとは全く異なっているのだ。
声に対する我々が捉えている概念の外側に、本来合唱や声楽で使う基礎となる声があるわけだ。
我々は「接ぎ木」をするようにクラシックの発声法を採り入れてきたのである。
過去いろいろな先生方がイタリアやドイツへ留学していろいろと発声法を日本に持ちかえってきて、
それが全体的であれ、断片的であれ継承されているものの、
技術のみ、あるいは枝葉のみ目を向けて果たしてその原理や精神までも吸収するまでは至ってるのだろうか・・・・

右脳を使って歌おう

歌はまずは自分自身が気分良くうたえることが大事
歌い疲れしない声を身につけよう。せっかく我々は歌を歌う楽しみを見つけた。
できることなら一生歌い続けることができたらうれしいもんだ。
金属でも疲労をおこすように、なんども同じ使い方をすると体の筋肉も疲労をおこす。
声も歌うのも筋肉の動きのなせる技だ。いつも同じ歌い方をすると声も出なくなるのではないか。
声帯ももちろん筋肉だ。それらを取り巻く筋肉の引っ張り合いと声帯の振動が声をつくる。
ならばいつもと違う声の出し方をするのもいいかもしれない。
おすすめしたいのはファルセットで歌うこと。
ファルセットとか裏声とかいえばなんか偽りとか邪道とかいう感覚が強いですがそれは名前が悪いだけなんです。
ファルセットは紛れも無く自分自身の声であり、このもう一つの声の存在を自覚し磨くことでわれわれの声の可能性を広げることができるかもしれない。ファルセットは高い音域じゃないと出ないかもしれない、それを少しずつ低い音階でも歌えるように訓練していく。やってみるとわかるけど非常に難しい。始めは音が拡散してしまって僅かな音しか出ない。力を入れて大きい声を出そうとすればするほど声は拡散してかえってノドが疲れてくるワリにちっとも音は大きくならない。例えば、いきなり平均台の上を走れ!といわれたって体操選手じゃないんだからできるわけない。はじめはそーっと両手でバランスをとりながら足を踏み出すでしょう。ゆっくりやりましょう。声にも体にも重要なのはバランスを掴む能力です。

いつものやり方で高い音域で声を出すとひっくり返ることがある。それでいいんです。出し方に無理があるから、体の調整機能が働いてひっくり返るわけだ。だから逆さまから言えば、ひっくり返った声は裏声であるから、、裏声こそ自然で無理のない声とも言えるわけである。声は多いにひっくり返って裏返えりましょう。


 
●PLAY●

Nietzscheたいらちゃんの
<ビデオを観よう!>
 ∧ ∧
=・.・=
 ゛ ゛
第1回「ショーシャンクの空に」

 偶々、WOWWOWで放映されていたのを途中から観たのです。
映画・テレビを問わず、およそ「映像」という分野に殆ど無関心であった私が
その考えを改めるきっかけとなった作品です。それからというもの、TSUTAYA新大阪店の常連!?
(特にReady's dayは外さない)
原作はスティーヴン・キング。無知な私は、キング=大衆SF作家と、大きな勘違いをしていたのですが、
(ちなみに、世間評ではホラー作家ですね。)こんなヒューマンなドラマが描けるとは。
それからしばらくは、彼の作品を読みあさる日々が続きました。
読者を飽きさせることのないそのストーリーテリングが、キングの面白さの心髄でしょう。
ただし、この作品のストーリー自体を要約すれば、
「無実の罪を着せられた元エリート銀行員が、懲役19年目に脱獄を図って成功する」
という、陳腐極まりないものになり果ててしまうのですが、それを如何に「物語る」か、
そこが作家の腕の見せどころ、また監督の演出のしどころであると思います。

 さて、「物語」に関しては私、かなりの拘りを持っていると自負しております。 
現代において、芸術と称する表現方法は様々ありますが、それらのルーツを辿れば、
すべて「物語」に行き着くのではないかと思っています。
「小説」は無論、「映画」然り、「演劇」然り、「絵画」然り、「音楽」もまた然り。
(最後は多少議論の余地があるかもしれません)
太古から脈々と受け継がれてきた記憶の断片を、また脈々と繋ぎ合わせるという作業を、
人間はどの民族に限らず延々と繰り返してきたのであり、その結果として
形骸化されたものが芸術と呼ばれているのではないかと考えます。
あるいは、もっといえば、まず「物語ありき」か?
過去の記憶がありありと現在に蘇ってくるという過程そのものが「物語」であり、
逆にいえば、「物語」化しているからこそ、記憶の蘇生が可能なのではないでしょうか。
そのようなあり方でしか、つまり、物語を介することなしに、記憶は再生できないのではないでしょうか?
永遠に夜明けが来ないのではないだろうかと思われるような長い長い夜更けに、過去の記憶が、
「実際にあった自己の記憶」ではなく、自分を超えたところに既に存在した「物語」
のようなかたちで再生されてきた経験を、みなさんはお持ちではないですか?
もしくは、「記憶」が「物語」へ導かれていくような感覚...
自分はその「物語」の中を生きているのに過ぎないのではないかという、倒錯した感覚を。

 さて、映画に戻りますが、果てしのない単調な日々が一生涯に渡って約束された時、
人間はどうなってしまうのか? 
それが、たとえ強制収容所であろうが刑務所であろうが養老院であろうが、
人間の精神を腐敗させるに充分であるという点では、どれも同じであるといえます。
そもそもそれらは、“人間”を殺す、というより“非人間”に仕立て上げるという目的を
合理的に果たすために作られた装置であるからです。
しかし、そういった分かり易い施設に入れられていなくとも、わたしたちはわざわざ
自らの手で似たような装置を作って、自らをそこに閉じ込めてしまうような行動をとってはいないでしょうか。
知らず知らずのうちに。
 「籠の中の鳥」になり下がることは簡単で、それに慣れてしまえば却って楽に生きられるかもしれない。
あるいは、何らかの不条理な力が私たちを突然、籠の中に押し込めてしまうかもしれない。
そういったことは、往々にしてあり得るのですから。
でも、どんな状況に遭っても、どんな状態に在っても、そういった抗し難い力に屈することなく、
「求める」こと。
ひたすら「求め」つづけ、決して諦めないこと。
“人間”精神の基本を改めて教えられた作品でした。

  「音楽を(禁ずることはできても)人間の心から奪い去ることはできない」という台詞もまた、感動的です。


 
●INFORMATION●


●How do you do?●

今月もよどこんに新しい仲間が増えました。爽やかな5月の風が吹くように、 新しい風を運んできてくれるといいですね。 新入団員の方々にアンケート形式で、自己紹介をしてもらいました。 
 質問項目は次の通りです。
(1)最寄り駅 
(2)勤務先・学校など 
(3)よどこんを知った/入団のきっかけは? 
(4)よどこんの第一印象 
(5)好きな曲や音楽 
(6)趣味またはよどこんの無い休日の過ごし方 
(7)ひとこと・PR 
◆は団員からのひとことです。

※本コーナーはプライバシー保護のため、ONLINE版には若干の制限を加えています。



●鷲崎春の演奏会情報●


-心の財産をみつけよう-

生命力溢れる「海の記憶」、感動が渦巻いていた「今はない木々の歌」の初演、プーランク「グローリア」(オケ付き!)、本山秀毅先生指揮のブラームス「ドイツ・レクイエム」、松下耕先生作曲そして指揮の「鳥のために」初演等々のビッグステージを続けてきた関混連の演奏会も今年の6月で31回目になります(長田育忠先生には5回も合同演奏でピアノを弾いていただきました)。関混連現役生の皆様、あなた達は無限の可能性の持ち主なのです。
世界中には愛すべき対象がたくさんあります。おおらかに、元気にはばたけ現役生たち!!
よどこんプラザ読者の皆様も、是非とも会場へ足を運んで現役生たちを応援しましょう。

MAY・5月
21・日 女声コーラスわかくさ          いずみホール
23・火 大阪アカデミー合唱団&すみよし少年少女合唱団      

オルフ「カルミナ・ブラーナ」      

ザ・シンフォニーホール
25・木 スペイン・モンセラ修道院聖歌隊     神戸新聞松方ホール
28・日 スペイン・モンセラ修道院聖歌隊     芦屋ルナホール
28・日 ANCORの会             ザ・カレッジ・オペラハウス
28・日 女声合唱団かがやき           いずみホール
31・水 コレギウム・ヴォ-カレ         いずみホール
JUNE・6月
 1・木 スペイン・モンセラ修道院聖歌隊     姫路パルソナスホール
 4・日 第37回京都合唱祭

・・・第2ホールで「合唱団葡萄の樹」の演奏あります

京都会館
 7・水 関西学生混声合唱連盟第31回定期演奏会      

・・・ソプラノ矢口さん・アルト宇野さん・
     テナー生田くんが出演します

フェスティバルホール
10・土 第37回大阪府合唱祭・おかあさんコンクール大阪大会      

・・・伊東恵司さんが審査員をされます

豊中市民会館
11・日 第37回大阪府合唱祭          豊中市民会館
14・水 ACOUSTIX            いたみホール
24・土 スクエア・コーラル・コンサートin山梨     

(宇都宮大・千葉大・文京大・山梨大)
        

・・・松下耕先生が指揮されます

韮崎文化ホール
24・土 コードリベット・コール         いずみホール
25・日 大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団    いずみホール
25・日 奈良混声合唱団             奈良県文化会館国際ホール
JULY・7月
 1.土 佛教大学・京都府立大学ジョイントコンサート
     合同演奏「今でも・・・ローセキは魔法の杖」      

・・・伊東恵司さんが合同演奏で指揮されます

京都こども文化会館
 2・日 第49回東西四大学合唱演奏会      ザ・シンフォニーホール
 9・日 混声合唱団京都木曜会          八幡市文化センター
 9・日 神戸中央合唱団             神戸新聞松方ホール
12・水 エストニア少女合唱団エルレルヘイン   東京・文京シビックホール
15・土 合唱団京都エコー 
15・土 豊中混声合唱団             ザ・シンフォニーホール
15・土 淀川混声合唱団             いずみホール
22・土 松下中央合唱団             ザ・シンフォニーホール
23・日 大阪混声合唱団             いずみホール
29・土 第17回宝塚国際室内合唱コンクール   宝塚べガ・ホール
30・日 第17回宝塚国際室内合唱コンクール      

入賞団体演奏会             

宝塚べガ・ホール
30・日 男声合唱団アンサンブルプレイアード      

・・・松下耕先生が指揮されます

府中の森芸術劇場ウィーンホール
30・日 明治大学グリークラブ          広島アステールプラザ大ホール


 

●うずからのお知らせ●
練習予定表

5月 6日(土) 18時〜21時 淀川善隣館
5月14日(日) 12時〜17時 淀川善隣館 松下先生練習
5月20日(土) 18時〜21時 淀川善隣館
5月28日(日) 10時〜17時 淀川善隣館 津幡先生練習
6月11日(日) 大阪府合唱祭(練習もあります)
6月18日(日) 10時〜17時 淀川善隣館
6月25日(日) 12時〜17時 桜ノ宮アートホール 松下先生練習
7月 2日(日) 12時〜17時 淀川善隣館 津幡先生練習
7月 9日(日) 12時〜17時 ミード社会館 松下先生練習


 

●ホーリィからのお知らせ●
合唱連盟便り

文責 ホーリィ   

*今回は(ってやっぱり連載してる…)こんなお知らせです。

   
*お知らせその一
[第14回おかあさんカンタートin伊丹]
と  き:2000年7月22、23日
と こ ろ:いたみホール、伊丹アイフォニックホール
受 講 料:5000円プラステキスト代・パーティー8500円(伊丹第一ホテル)
内  容:一日目は出演希望団体によるおはようコンサート、発声・歌唱講座、コーラスセミナーなど。 一日目の夜にパーティーがあります。
二日目は作曲家による合唱実技講習。その名も「松下耕と歌おう」「木下牧子と歌おう」「関屋 晋と歌おう」! これは幸せな一日だ…
ちなみに21日には、「伊丹散策ツアー〜キユーピー・白雪工場見学」、「歓迎コンサート〜ようこそ伊丹へ」(伊丹混声合唱団ほか)があります。
参加資格:連盟非加盟者も可、個人でも団体でも可。要するにおかあさんコーラスに限定せず。
詳細お問い合わせ、参加要綱のご請求は下記まで!
 連絡先:〒530-8211 大阪市北区中之島3-2-4   
     朝日新聞文化企画局大阪企画部内   
     社団法人全日本合唱連盟関西支部   
            TEL 06-6201-8030   
              FAX 06-6229-9417   
*お知らせその二
[全日本合唱連盟ホームページです]
全日本合唱連盟のホームページを知っていますか。  
連盟の行事や活動の紹介、演奏会情報、サイトを持つ各支部や合唱関連サイトへのリンクなどが楽しめます。ちなみに大阪府のサイトはまだありません…。  
リンクでは「合唱の家」「世界合唱連盟(もちろん英語)」などを覗くことができます。

 アドレスは http://www.jcanet.or.jp

興味(と通信環境)があったら覗いてみてください。


●編集後記●

 予定していた発行日より遅れてしまい、バタバタと編集しております。 皆様の御協力により今回も内容がタップリのPLAZAになりました。 ありがとうございました。  
なお、次号は発行7月2日、原稿締め切り6月18日を予定しております。 投稿、アイデアなど募集しておりますので宜しくお願い致します。

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