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VOL.45/January,2000

INDEX
  1. 団長の独り言
  2. Liner Notes by Itoh Keishi
    ●福永洋一郎10周忌に寄せる
  3. 鷲崎 春の演奏会情報
    −心の財産を見つけてみよう−
  4. ●編集後記●


  5. よどこんプラザ1月号

    ■よどこん2000年の飛躍?!



             
    団長の独り言

     y2kで世間が騒がしく、私の会社(情報関係)もテンヤワンヤの年末年始を送っ ているなかで、申し訳ないが私は平穏な正月を過ごした。

     数年前のこの欄で「私のハマリ度」なる、読んでいない方には訳のわからない事に ついて書いたことをご記憶の方がおられるかもしれない。内容は・・・要は高校1年生 (もう30年近く前!)から始まった私のコーラスライフ(結構気持ち悪い語感! が、東京から大阪に戻る前の4年ほどのブランクを経て、よどこんに加え会社のコ ーラス(混声)・大学のOB会を含めた二つの男声合唱団に入るに至って、学生時代 を超えた最大の合唱への「ハマリ度」に陥っているといった他愛のないものであった が、そのまま続くものと思っていたら、ココにいたって当時をはるかに越えたとんで もないことになってしまっている自分に苦笑を禁じえない。

     既にご存知の方もおられるが、昨年から私は新たに2つの合唱団に通い始めている 。加えて練習日が重なっていることを口実にしていたOB会も練習日をずらされてし まった?ためやむをえず?復帰しており、今や・・・自分でもいくつの合唱団で歌っ ているのか、すぐには答えられなくなっている。

     こういう状況の兆候がみえだしたのが、今や生活のリズムにさえなってしまった感 のある、仕事での毎週の東阪往復が始まった6年前からというのが妙であるが、場所 が違うからこそ複数の合唱団に入る気にもなったのではないかと思っている。

     25年来の親友からは、いい加減にしろとの有難い忠告ももらっているが、今のと ころ自重する気にはとてもならない。今はしばし欲求に任せてみたいと思っている・ ・・まさか、これ以上にはなり得ないであろうし・・・。

     これだけ合唱団に入っていると色々刺激もあり、考えさせられることも多い。今ま で、よどこんでは常識だと思っていたことが全く通用しないこともあったりして、自 分自身の固定観念の打破を試み、よどこんにも問題提起も行ってみたいと、そんなこ とを独り考えているこの頃である。

    林 和之 


            
    LINER NOTES
    by Ito Keishi

    ●福永陽一郎10周忌に寄せる

    2月11日に行われる、「You‘ll never walk alone〜福永陽一郎追悼コンサート」(京都:シルクホール)の第2ステージで「岬の墓」を指揮します。日本合唱界の草分けとも言える福永陽一郎の想い出に関する文章は1994年の「よどこんプラザ」(第7回:ライナーノーツ)に伊東恵司史上最も力の篭った「渾身の?」文章として掲載しております。(長いですが、私自身の合唱に対する思いの原点であるゆえ、メンバーの変わった今再掲させていただきます。)福永陽一郎を同志社グリークラブに招聘したのは「京都エコー」の浅井先生でしたが、福永陽一郎に教えを受けた最後の学生指揮者は10年前の私でした。学生時代私がクラブに本気取り組もうと思ったのも、指揮者になりたいと思ったのも、合唱に向いてないとすら思った私がその後奇跡的に合唱を続けているのも、さらに今でも学生のように理想との狭間で情緒を崩しそうになるのも、・・・いやいや、むしろ「生き方」や「考え方」そのものに至るまでの強い影響を受けたのがこの福永陽一郎先生でした。

    2月の演奏のほうはともかく?、演奏会パンフ執筆のために、久しぶりに古い文章や学生時代の余りにも高邁な?文章などを読み返すと、自分でもびっくりするような目指していた音楽の理想の高さに今の自分が「励まされる」ような気がいたしました。私自身原点に立ち返らなくてはなりません。小さくとも、拙くとも「人生に影響を与えるような」音楽を目指すのが、私が合唱指揮を続けている唯一絶対の「使命」なのです。

    (以下、第7回「ライナーノーツ」〜「よどこんプラザ」1994年1月号を再掲)

    <Y.Fのこと>

    福永陽一郎は針金のように細い身体をしていた。

    ただ純粋に合唱を愛したこの音楽家は、死の前日まで音楽のために奉仕した。人工透析を続けながら指揮棒と青年の感性だけを持って、人生を文字通り駆け抜けていったのである。あの日からもうどれくらい経つのだろう。思い出すのさえ嫌だったあの冬の寒い夜から、もう4年の歳月が流れてしまったことになる…。 1989年、38回東西四大学合唱演奏会で福永陽一郎は同志社グリークラブとの30年もの付き合いの総決算として「月光とピエロ」を指揮した。僕は幸運にも学生指揮者として男声合唱の基本ともいえるこの組曲の下振りをすることができた。福永陽一郎はすでに5,6年に渡って人工透析を続けているという身体であったが、一時期の不調を乗り越え、思い立ったように「『ピエロ』をやろう…」と言った。 そして、僕に小さくこう呟いた。 「最近、ようやく音楽が体から溢れるようになってきたんだよ」

    単純な和音だけで成り立っているこの曲を歌い込むことは、複雑なリズムやアンサンブルを克服していくことよりも難しい。学生指揮者としてのキャリアも浅かった僕は詩を読み、楽譜を見、とりあえず福永陽一郎の指示する練習をすることで精一杯だった。しかし、困難を乗り越えると、合唱はかつて無い音の輝きを極め、後に福永陽一郎をして「音楽の理想郷ができた…」と言わしめるものになった。6月の東京文化会館の演奏会では、「堀口大学の詩と清水修の曲と福永陽一郎の音楽作りが渾然となって理想の境地に達した」と評された。小林研一郎が走り寄ってきて、「陽ちゃん先生、フルトヴェングラーになったんじゃない…」と絶賛したことを、福永先生自身が子供のように喜んで何度も僕に話してくれた。

    詩の中に刻み込まれているペシミズムや暗い叙情性がどのような音の配列、調性になって表現されているか、ということは下振りとして随分勉強になったし、どうしてこの曲がこれほど歌われてもなお、美しい輝きを失わないのかということは存分に思い知らされたような気がする。しかし、先生の指揮の中でどうしても忘れることのできないフレーズがある。「悲しからずや、身はピエロ、月のやもめの父なし子…」という詩に続く4曲目の3拍子、「月はみ空に身はここに…月はみ空に身はここに…」の繰り返しである。 先生は、この1回目をテヌート・スタッカートで切り分けた。レガートで歌うことを何の疑いもなく常識とするフレーズを「き・は」「ら・に」に切り分けるという予想外の音楽作りを行ったとき、福永陽一郎の細い、今にも折れそうな身体から、指先から、腕の振り下ろしから、表情から…、音楽そのものが溢れてくるのを感じた。 切り分けたことが意外だったというのではない。音を一つずつ大切にするため…。一つの音符に心を込めるため…。音符は音楽家のとぎれとぎれの溜め息のように描かれていた。しかし、どうして切り分けるのか、この音作りはどういう意図によるものなのか、どういう思想に裏打ちされているのか…、そういったこととは全く無関係にその時、音楽は「音楽」以外の何ものでも無くなっていたのだった。 先生はその時自分の作る音楽に関してはほとんど何も言わなかった。僕にはただ、「練習をしすぎないように」とだけ言った。音楽との馴れ合いになってしまったり、曲想が固まってしまうことだけを避けたかったようである。本番の音楽には、和音がどうだとか、詩の解釈がどうだといった「理性」の入り込む余地はもう何もない。ただひたすらに音楽のみが立ち上がっていた。そんなことってあるのだろうか…と自分自身の声と存在と耳を疑いながらもそれを確認せずにはおれなかったのである。

    音楽は「うた」であり、感情の呼吸である。呼吸をしなければ生きられないのと同様、考えることよりも、言葉にすることよりも、歌うことは生命の価値に等しいのである。哲学の範疇で音楽を捉えることを不自然には思わないが、「音楽は言葉にはならない感情の流れだ」という時、まさしくそうだと思い、「あらゆる音楽はロマン派である」という言葉には大きな拍手を惜しまない。福永陽一郎の身体には、頭のてっぺんから足の爪先まで、「うた」が満ち溢れていた。「月はみ空に、身はここに」という3拍子で歌われた一片の詩のかけらからは、冴え切った映像だけでなく、寒さや、痛みや、身悶えするような寂しさや、惨めさや、諦めや、それでも生きているという安心感や、やさしさや、不思議さが理屈や言葉では説明のできない音楽の塊として紡ぎ出されていたのだ。僕は思わず歌いながら泣き出しそうになっていた。

    瞳を見つめ合うことから恋が始まるように…、「好きだ」という言葉の中に純粋な一つの思いがこもっているように…、一つの思いは一つの思いと結び付き、「うた」が生成する。合唱とはまさしくそういう場なのだ。指揮者とは多くの人々が心の中に宿している思いを息を吐き出させるように引き出し、聞き手の心に送り届ける人なのだ。僕の目の前にそんな指揮者、福永陽一郎が生きて呼吸をし、立っているという事実だけがすでに一つの大きな感動であった。 夏が過ぎ、秋の多忙な練習の中で定期演奏会の「岬の墓」の練習がついおろそかになったことがあった。 たった一度だけだったが、ひどく叱られて落ち込み、自信を無くしかけたことがあった。練習不足であるという原因ははっきりしていたが、それでも僕が曲に対して持っていたイメージに甘さがあったことを認めずにはおれず、楽譜を何度も見直し、必死で練習を組み立て直した。次の練習で先生に「明日が本番でも大丈夫」と言われた時には、このまま倒れても良いというほど、神経を摩り減らしてしまっていたが、そんなにも真剣にさせられたということ自体が今となっては懐かしく思い出される。逆に何度か先生に褒められたこともあった。僕が特に嬉しかったのは、「君の手は何かを語ろうとしているね」と言われたことだった。

    福永陽一郎は最後までアマチュアの音楽に拘った。自分自身は戦後の日本オペラ界の屋台骨を支えた人間で、オーケストラを相手に一線級の活躍ができる実力を持っていながら、アカデミズムを嫌い、縛られることを嫌い、媚びることを嫌い、純粋すぎるほどの音楽へのひたむきな情熱の余り、体を壊し命まで削ってしまった。しかし、アマチュアにしか出来ない120%の音楽、純粋な表現、ひたむきな心、を先生は生きることと同じように愛していた。技巧や水準は別として、解釈とか時代背景といった次元のアプローチを無にしてしまうようなもの…、誰しもが何らかのかたちで胸に持っている「うたごころ」こそ「音楽」の源泉なのだ。先生はいつもそう言っていた。そして何より、心のこもった音楽が、人の心と人生までをも支配する力を持っているということをこの音楽家は身を持って僕に教えてくれたのである。

    福永陽一郎の死後、半年ほど経って藤沢の福永宅を訪れたことがある。閑静な住宅街にあるものの、小さなこじんまりとした借家であった。僕が訪れたのは、散逸される前に楽譜の整理をしておこうという心積もりのためであったが、音楽家の小部屋は、亡くなった時そのままに乱雑に散らかっていた。10,000枚を優に超えるレコードと書籍、楽譜を整理しながら、僕は部屋の片隅から「月光とピエロ」の楽譜を拾い出した。何の書き込みもない新しい楽譜である。その横に編曲用のキーボードが主人の帰りを待つ愛犬のようにおとなしく置かれたままになっていた。福永陽一郎に触れ、その表情の中から音楽そのものを感じ取った人は余りに多かった。しかし、計らずも「見上げてごらん夜空の星を」を別れの曲に選んだまま、福永陽一郎は僕らのもとから去っていったのだ。

    そして、あれから少しばかりの年月がたった。

    淀川混声合唱団という小さな合唱団で相変わらずに不器用に練習している僕のことを、福永陽一郎はどんな目で見てくれているのだろうか…と時々考える。「福永陽一郎に師事・・・」と言うのは自分自身余りにも未熟過ぎるが、僕自身が福永陽一郎の音楽によって音楽と合唱の素晴らしさを知り、大きく心を動かされたように、どんなちっぽけなものであっても心のこもった美しい音楽が人の心を揺り動かすことができるのだと信じている。時によっては人の一生をさえ左右するような感動を与えることができるのだという事実を、僕は福永陽一郎から得た最高の宝として心の支えにしている。そんな僕のことを先生は忘れずにみてくれているだろうか…。 よどこんの演奏会の度に「陽ちゃん、何とかちょっとでも良い音楽ができますように…」といつも祈っている。陽ちゃんはいつも(やさしい、にが笑い?)のまま黙っているような気がしてならないのだが、それでもふと見上げた夜空の中に純粋な音楽を見つめるまなざしを感じ、ほっと胸を撫でおろすことがある。「空に向かって歌ってみなさい」…。天上の音楽家のその言葉を信じ、少しでも良い音楽を作ろうとするひたむきさを大切にしたいと思っている。小さくとも心の恵みに溢れた指揮ができたらと思っている。そして、いつの日にか「こんな立派な合唱団に育ちましたよ…こんな合唱団でこんな良い音楽が作れましたよ…」と陽ちゃんに報告することが、僕のささやかな、しかし大切な夢なのである。

    (以上、第7回ライナーノーツより)


      

    ●鷲崎春の演奏会情報●
    −心の財産をみつけよう−

    北新宿に住んでいた子供の頃学校でよく「大地震に備えての避難訓練」をやっていました。その後20年も経って本物の地震に遭ったとき、頭で考えるより先に体が反射的に動いて、 気がつくと昔習った通りの避難行動をとっていたのには少し驚きました。 意外と覚えているものなんですね。よどこんの練習の時に聞くちょっとした 指示しっかり気をつけて取り組んでいくと次第に身について、 かんじんな時にすごく役に立ちますよ、今年も引き続き 「よい演奏」を目指して前向きに頑張りましょう!

    JANUARY●1月

    10・月

    クライネ・クノスペン合唱団 夙川カトリック教会聖堂

    10・月

    テレマン室内合唱団 いずみホール

    16・日

    みやこフィルハーモニック
    チャリティーコンサート・・・アルト大浦敦子さんが出演します
    京都コンサートホール

    16・日

    大阪大学男声合唱団 吹田メイシアター

    16・日

    京都産業大学グリークラブ 京都こども文化会館エンゼルハウス

    23.日

    関西学院グリークラブ 東京オペラシティコンサートホール

    29・土

    糠谷幸裕君&鶴見陽子さんご結婚式  

    29・土

    武庫川女子大学コーラス部 伊丹アイフォニックホール

    30・日

    関西学院グリークラブ フェスティバルホール
    FEBRUARY●2月

    11・金

    福永陽一郎没後10年
    メモリアルコンサート・・・伊東恵司さんが指揮されます
    京都産業会館シルクホール

    17・木

    東京混声合唱団 東京オペラシティタケミツメモリアルホール

    19・土

    同志社グリークラブ
    フェアウエルコンサート
    同志社大学学生会館

    26・土

    アルマ・マータ・クワイア いずみホール

    26・土

    神戸女学院大学コーラス部 西宮文化会館アミティホール

    26・土

    バッハ・コレギウム・ジャパン 神戸松蔭女子学院大学チャペル
    MARCH●3月

    3・金

    国立ロシア民族合唱団 ザ・シンフォニーホール

    27・月

    東京混声合唱団 東京文化会館小ホール


    ●編集後記●

    1年間、青色吐息の編集でした。 予定通りの発行がほとんどなかったことも、お詫びせねばなりません。
    また今回、編集の都合で、無断で、糠谷氏の連載を中断しています。これも伏してお詫びします。
    歌いたいけれども、時間がないというジレンマがここ何年も続いています。編集もこのままでは、ご迷惑ばかりかけるので、今回の発行を最後に、次の方と交代させていただきます。
    また歌えるようになりましたら、ご一緒させてください。

    Yamashita Atsuko

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