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VOL.41/June,1999

INDEX
  1. 特集■これがPoulencだ!
  2. Liner Notes by Itoh Keishi

  3. ■爽やかな風に頬が…


       


    特集これがPoulencだ!

    ひとり言
    今年の“よどこん”の演奏会の曲目を問われたので「Poulencをやる」と答えると「Ravelの曲?」と返ってくること3回。“Ravel”の曲にあるのは“クー プランの墓(Le Tombeau de Couperin)”である。これはピアノ曲(オケ版も ある)である。いい加減にしてもらいたいと言いたいところだがPoulencにつ いて無知であった私も偉そうなことは言えない。 そもそも“Poulenc”って何者?。

    Francis Poulenc
    Francis Jean Marcel Poulenc(正式にはこういう名前らしい)は1899年1月7 日にパリで生を受け、1963年1月30日にパリで没した生っ粋のパリジャンで、 作曲家・ピアニストとして知られている。カトリックを深く信仰する家庭に育 ち、彼の信仰は主に彼の父親に委ねられていたがこれを後年Poulencは「卑し くなく、また非常に自由な方法」と回想している。その為か1918年に兵役の為 に家を離れ、その後パリで芸術家として向こう見ずな生活に入って以降彼の信 仰に対する関心は薄れ、Poulencも後に「1920年から1935年の間私はほとんど 信仰と関わらなかった」と認めている。しかしながら、このカトリック信仰が とりわけPoulencの後半生の人間性、音楽性に与えた影響は後述するように絶 大なのもであったことも忘れてはならない。

    彼の音楽暦は5才の時に母親からピアノの手ほどきを受けたことに始まる。 Poulencはピアニストとしての才能にも恵まれ、10代で既に彼の師Ricard Vinesに優れたピアニストであることを認められている。作曲家としては第一 次大戦の兵役中に最初の出版を果たし、1920年頃には「フランス6人組1)」 の一人に数えられ、Erik Satieらと共にDebussyやRavelらの印象主義に異を唱 え、作家Jean Cocteauと親交を持った。彼の代表的なピアノ曲「3つの Mouvments perpetuels2)」はこの頃の作品である。1921年から1924年の間に は作曲家Charles Koechlinに学び、また生涯に渡って多くの人々と交際を持っ たがPoulenc自身はいかなる楽派にも属さず、彼自身「私は主義など持ちませ んし、それを誇りにしています」「私は作曲法上の体系を全く持ち合わせてい ません、ありがたいことに!」等と述べている。
    さて、若い頃は伊達好みで審美家的だったPoulencであったが1936年大きな転 機が訪れる。よき友人であったPierre-Octave Ferroudを自動車事故で亡くし た時、深く動揺した彼はこう書き残している。「私の活力の全てであるこの音 楽家の無残な死は私を茫然とさせた。我々人間の骨格のはかなさを思うと、精 神的な生き方というのもが再び私を引き寄せた。」この事がきっかけで再び彼 は深い信仰を取り戻す事になる。彼は再び礼拝に参加し、その後は彼は恥じな がら自身の信仰を「私は最も濃い本能と遺伝を持って信心深い」と述べた。ま た「私自身、熱烈な政治上の信念を持っていないが、しかし、私にとって信仰 を信じ、行なうことは全く自然なことに思える。私はカトリック教徒である。 この事は私の最大の自由である」とも述べている。この彼の生涯の後半30年 間、ミサ曲、Stabat Mater、Gloria、Dialogue des Carmelites3)、等々宗 教をテーマとする素晴らしい作品群が彼の熱心な、新たな発想から生まれた。
    Poulencの信念は、その音楽に出ているように平易で直接的、楽天的、そして 楽しいことである。彼は友人に「私は田舎の牧師の信念を持っている」と語 り、都会の大聖堂での体系化された礼拝よりも田舎の教会での祈祷や静かな瞑 想のほうを好んだ。また、「私は信仰の精神が明確に表現されることを望む、 我々がロマネスク様式の柱を見ることが出来るのと同様の写実性を持って」と 述べ、「私にとっての最も美しい祈りの特質である情熱の感覚、そしてとりわ け謙虚の感覚を創造することを私は努めている。私の宗教音楽の着想は本質的 には率直で、恐らくは心の底からのものである」と語っている。ある訪問記者 がPoulencに彼の合唱作品や宗教作品の高い質について評論した時、彼は次の ように答えている。「私はそれらの作品を通して私の最高の、そして最も誠実 な部分が表現されたと思う。もし今から50年後においても私の作品が興味を持 たれているとしたら、それは“Mouvments perpetuels”についてであるよりも “Stabat Mater”についてであろう。」
    最晩年、Poulencはますます空想的になり、その結果信仰により多くの関心を 持った。彼は生涯に渡り激しい精神的落胆の発作に陥り易く、その一つは1950 年代半ばの「Dialogue des Carmelites」の仕事の間で精神衰弱(ノイロー ゼ)となっている。それ以降彼は大部分回復することにはなるが1961年には彼 の伝記作家であるHenri Hellに「私は次に何をかけばよいのか?。疑う余地な く何も無い」と嘆いている。しかしながら1年後、彼は歌手のPierre Bernacに 書き送っている。「私は今、完全に自由であり、私は神を待ち受けることがで きる」と。この時、彼自身すでに死を予感していたのか、翌1963年1月30日に 生涯を閉じることになる。彼は自身のことをよく「半ば修道士、半ば無法者」 と評していた。彼が死んだ時、ある評論家がこう書いている。「修道士はしば しば無法者に驚かされたが、無法者を抑えることはしなかった。それだから彼 らは年中奮闘していた。子供と大人が、聖者と世俗人が、ブルジョアと反抗者 が。それらの奮闘が独特な音楽となった。…そのいくつかは素晴らしく、その いくつかは劣悪で、その全てがPoulencなり」

    Poulencの音楽
    Poulencの作品は明るく、ユーモアに満ち、旋律の豊かなことである。作品に 斬新さを感じる一方作曲技法的には例えばRavelの様な新しさは無く和声的に はむしろ保守的でさえあるが、その中で彼は独自のスタイルを実現している。 Poulencの言を借りると「MozartやShubertもまた当時存在した手法で創作して いるではないか」。彼の作品において最も重要な要素はメロディーであり、ま た20世紀のフランス音楽においてPoulencが独自の地位を得たのもこのメロ ディーの独創性によるところが大きい。

    PoulencのGloria
    GloriaはKoussevitzky音楽財団からの依頼で書かれ、Serge & Natalie Koussevitzky4)の霊に捧げられた。初演は1961年1月20日、Koussevitzkyの 後継者とも言うべきCharles Munch5)指揮のBoston Symphonie Orchestraに よって行われている。このGloriaについてPoulencは「神の栄光のための楽し い賛歌を書くことに努めた」と語っている。テキストはミサ通常文の2番目の 部分から採られている。ミサ通常文は5世紀にまでさかのぼることができる伝 統的な一連の詩文であり、Gloriaの部分はキリストの降誕の晩に天使によって 幼きキリストを賛美して歌われたもの6)であるとされている。Poulencは作 曲中、この古来からの詞を繰り返し朗読し、傾聴し、息遣いに注意し、強勢を 作り、音節の内部のリズムを確認し、より深く意味を理解しながら詞に没頭し た。こうしてこのGloriaも多くの優れた声楽曲の様にそのテキストの意味と音 の発展によって作られた。Poulencはこの荘厳な詞を再解釈し、彼の優れた抒 情詩的才能が生んだ音楽の中に詞を包み込むことによって、この詞のメッセー ジをさらに強めることに成功している。この彼の才能はしばしば彼の敬愛した 作曲家Schubertのそれに例えられている。Roger Nicholsは「Poulencにとって 全ての中で最も重要な要素は旋律であった。そして彼は既に詳しく調べられ、 作り出され、使い果たされた範囲の中から未発見の旋律の宝庫へ至る彼の道を 見出していた」と評している。 Gloriaは全管弦楽による華々しいファンファーレで始まる。この最初の楽章は Poulenc特有の感情の一つである「多少郷愁気味の喜びの感情」を持ってい る。快活な「Laudamus te」に関しては、Poulencの次のような回想がある。 「第二楽章は悪評を買ったが、私は「なぜ?」と思った。私はこれを書いてい る時、Gozzoliのフレスコ画の舌を出した天使達のことや、ある日に見たサッ カーを楽しんでいる真面目なベネディクト会の修道士達のことを考えていただ けなのに。」この力強い第二楽章はまた次に続く深い畏敬と激しい感情の音楽 「Domine Deus」を鮮明にすることにも役立っている。「Laudamus te」の明る さと無頓着な笑いは第四楽章の「Domine fili unigeni te」で再び戻ってく る。この後には先の楽章のように厳粛で心を打つ性質の「Domine Deus, Agnus Dei」が続く。終楽章「Qui sedes ad dexteram Patris」はほぼ同じテキスト を用いた3つの部分に分けられる。この楽章は歓喜の合唱で始まりこれに全管 弦楽の和声による反響が続く。この祝祭的な雰囲気は次の部分にまで続き、第 一楽章を始めたファンファーレに形による句が合唱の合間に句読点の様に入 る。 “Qui sedes”の最後の扱いは、信心深い祈りと平和な祝福とで満たされ ており、Poulencはこの見事なGloriaをこの雰囲気の中で終えている。 1959年作曲のこのGloriaは当然Poulencの深い信仰をいくらか反映している が、また彼の信仰と音楽に特有の楽天的で大胆な感情に溢れている。この曲は かつて自分自身を「半ば修道士、半ば無法者」と評した人物に全くふさわしい 芸術作品である。

    ひとり言再び
    よどこんプラザの復刊を喜んでいたら「プーランクについて」の原稿依頼が来 てしまった。RutterのMagnificatの解説をM山先生によいしょされて以来この 種の仕事となると私のところに舞い込んでくるのは気のせいだろうか?。今 回、ネタの方はPoulencの生誕100周年ということもあってInternet上で検索す ると絞り込むのに苦労するくらい情報があるのだが日本語のページでは適当な ものが発見できず、結果英語と格闘する日々を送りました。英語アレルギーを 持つ私にとってこの苦しみは真詩の体重よりも重い(本当に重い)。当初の予 定の倍以上の紙面を割いて(編集長殿、ゴメンナサイ)あれこれ書きました が、まだ語り尽くせぬ感があります。書き出せば本が一冊できることを考えれ ば当然かもしれません。この文がPoulencとその音楽に興味を持ち、理解する 手助けになれば幸いです。
    それでは皆さん、よい演奏を!
    鐡見太郎(Bass)

    注釈
    1) Les Six(フランス6人組)
    1920年頃のフランス若手作曲家の一群で、Arthur 、Darius 、Francis Poulenc、Georges 、Louis 、Germaine の6人を指す。作曲家Erik Satie、作 家Jean Cocteauらと協調し、Wagner、Debussy、Ravelらの複雑、神秘的で暗い ロマン主義、印象主義、形式主義からの脱却と明快で簡素な「新フランス様 式」の確立を目指した。
    2) 訳すとすれば「常動曲」辺りか。
    3) オペラ「カルメル会修道女の対話」
    http://members.aol.com/pmpjapan/carmelites_japanese.htmに日本語訳が出 ている。
    4) Serge Alexandrovich Koussevitzky(1874〜1951)。ボストン交響楽団 の音楽監督等を歴任。Natalie(Natalya Ushkov)は夫人。
    5) 今世紀フランスを代表する名指揮者。ボストン交響楽団等で活躍。 Berlioz等フランス物を中心に秀演が多い。(1891〜1968)。
    6) 新約聖書・ルカによる福音書第2章第8〜20節参照


    Liner Notes by Itoh Keishi

    爽やかな風に頬が…(閑話休題)

    鴨川の側に今度の新しい保育園があるので、子供を迎えに行った帰りは(明か されない私の私生活…)鴨川の土手を歩いて帰ることになるのですが、桜の時 期が終わると川面を撫でてきたただひたすらに爽やかな風が頬をかすめていき ます。卒業してからしばらくの間、大学の近くに一人暮らしをしていましたの で、その時期にはよくこの界隈をさまよってはぼんやり本を読むに相応しい場 所を探したものです。川べりの雰囲気があまり変わらないので、こっちの時間 が随分経ってしまっていることすら忘れてしまいそうです。 出町の「ふたば」(豆餅で有名…)には相変わらず行列が出来ているし、喫茶 店マキのたたずまいも変わりません。そう言えば、YさんやKさんと一緒にあ の河原でバーベキューをしたこともあるはずだ…などと思い出してはノスタル ジアに浸ってしまうのです。
    さて、今回は音楽的な内容には触れません。「白いうた、青いうた」に関して は、別にお配りした資料を参考にしてください。

    私の近辺の事情を少し。
    先日、大阪府合唱連盟の高嶋先生(淀工グリー)からお電話がありました。 「今年の大阪府合唱祭の『高校合同』を指揮して欲しいとのことでした。もち ろんそんな降って沸いたような話は二つ返事でお引き受けしましたが、高校生 の時に合唱部であった訳ではない私にとっては『高校合唱』というもののイ メージが今一つピンときません。加えてルーズソックスの女子高生を前にする のかと思うと、異様に緊張しその夜はなかなか寝付けませんでした。
    京都に教会で演奏会をするようなこじんまりとした合唱団を作ってみました。 「葡萄の樹」というネーミングで、小さな宗教曲を中心に少しだけ練習してい ます。自分なりの合唱観を形成していく上で「合唱」そのものに対する様々な 角度からの試みの一つです。

    先日、さる人と「なぜこの期に及んでさらに合唱をするのか?」というような 議論をしたことがあります。
    私は個人的にはいささか逆説的なしかも回りくどい命題を自分に課していま す。

    「合唱は本当に感情表現、芸術の一つのジャンル足り得ているだろうか?。も ちろん、その通りだ…。」

    昨年、十三の練習の帰りに、一人でライブハウスでの「ブレヒト祭」に潜り込 み、アイスラーの曲とブレヒトソングを歌う歌手や役者を見てきて軽いショッ クを受けました。
    私の感想を率直に言うと、芸術表現における「合唱」に対する「演劇」の優位 性というものです。注釈をつけるならば、それは日本における表現形式の表層 上の現象としての・・、ということになるかもしれませんが、俗っぽい言葉で 極論を言うと、全ての演劇人は良い歌を歌うかもしれないが、合唱人の中で良 い歌を歌える人は一握りしかいないのではないか…。という不安です。

    …この辺の話は文章で書くと、誤解を含みやすいので、酒の席での酔いの回ら ないうちでの雑談のネタにとっておくとしましょう。
    その不安を払拭するために様々な取り組みを行なっているのかもしれません。

    合唱というもののテクニカルな側面への興味。
    合唱というものの形態・取り組みの多様性への興味。
    合唱界への不信不満。
    ひと息ついて気楽なチャレンジ。
    自分の中に燻っている塊。

    この様なキーワードに囲まれ悩みつづけている今日この頃なのでした。

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